ついてはいけない「嘘」
「東洋経済」というメディアのウェブサイトに、「嘘」つくことの是非について小学生の子どもたちが討議している記事が掲載されている。
「私は嘘をついたことがない」と言った人間が一番の大嘘つきだという笑い話が示唆するように、人間は誰でも嘘をつくことがある。だから、嘘をついてもよい場合とついてはいけない場合について、小学生が自ら考えるのは意義のあることである。
「答えのない問題に向き合うからこそ、子供たちは成長を重ねていく。なぜ、嘘をついてもいいのか?あるいは、なぜ嘘をついてはいけないのか?ついていい嘘があるとすれば、それはどんな場合か?先生はテンポよく子供を指名し、さまざまな意見を引き出していく。友達の意見を聞いて同調したり反論したり、子供たちの議論はなかなか収まらない。」
記事を読んでいて我々大人も大いに参考になる。子どもたちの場合には、学習塾も含めて宿題に関する言い訳で嘘をつくケースがそれなりにある。「宿題をやったけど家に忘れてきた」とか「宿題のプリントを無くした」というのが、典型的な言い訳である。そのような場合、当塾では時間延長して宿題をやり直してもらうことにしている。ただし、宿題を家に忘れて来たというのが本当で、親御さんが届けに来られる場合もある。親御さんが届けに来られない場合もあるから、むやみに責め立てることはしない。
人間誰も嘘をつくし、時には嘘が必要な場合もある。塾の経営で言えば、生徒数を正直に報告したら必要な融資が受けられない場合もあり、小生も開業時には生徒数を過大申告したことがある。学習塾関係の雑誌に掲載されている生徒数は、たいていの塾では2倍以上に水増ししてある。業界内でのこのような嘘は実害はもたらさないが、顧客を騙して高額な教材を一括購入させたり、出来もしないのに「成績保証」などと嘘をついたりする行為は犯罪に等しいであろう。
典型的に嘘が罷り通るのは政治の世界で、政治家には嘘を平気でつく人間もいる。いや、日本の国の中枢機構そのものが嘘つきになっているのかも知れない。だが、それは許されないことである。「福島の汚染水はアンダー・コントロール」だとか、「7月末から8月半ばの東京は温暖でアスリートが最高にパフォーマンスを発揮できる環境」だなどと言い張って、首相を始めとする日本のスタッフが国際会議で大嘘をついたことは、言語道断の行為である。
「桜を見る会」の問題では、首相はじめその他の議員や関係者の人たちには、嘘をつかずに正直に真実を語ってほしいものである。
**引用の記事はこちらです。
2019/11
man is condemned to be free
(l'homme est condamné à être libre)
神奈川県の川崎市で起きた事件の現場は、筆舌に尽くし難い凄惨なものであったはずである。しかし、これもまさしく現代社会の一面なのである。亡くなられた二人の被害者のことを思うと本当に痛ましく、このような悲劇が再び繰り返されることがないことを切に願う。だが過去にも、2008年に東京の秋葉原で同様の無差別殺傷事件が発生している。
このようなことが繰り返されるのには、人生の価値観を単純化することを奨励してきた社会にも責任があるように小生には思える。
“man is condemned to be free (l'homme est condamné à être libre)” 「人間は自由であることを強制されている」―- これは20世紀を代表するフランスの哲学者ジャン・ポール・サルトルが Existentialism Is a Humanism (L’existentialisme est un humanisme) 『実存主義はヒューマニズムである』という小論の中で述べた言葉である。
「自由を強制されている」というのはどういう意味なのであろうか? サルトル氏によれば、(以降は英訳のみを典拠とする)
Dostoevsky once wrote: “If God did not exist, everything would be permitted”; and that, for existentialism, is the starting point. Everything is indeed permitted if God does not exist, and man is in consequence forlorn, for he cannot find anything to depend upon either within or outside himself.
ドストエフスキーは嘗て書いた「もし神がいないとするなら、すべてが許されるであろう」と。そして、実存主義にとっては、そこが出発点なのであるる。もし神がいないとすれば、実際にすべてが許されて、その結果として人は孤独になり、彼は自分の内にも外にも拠るべきものを見いだせない。
サルトル氏が描いているこの状況こそ、今日の日本の若者の状況そのものではないだろうか? (もっとも川崎で事件を起こして自殺した男は51歳にもなるので、若者と呼べる年軽ではないが、精神的には全く未成長であったのだろう。)
サルトル氏が出発点として位置付けているこの状況を見ないように目隠しされて、単なる数値もしくは成果、すなわち得点・順位・偏差値・進学先・就職先・年収などで他人と単純比較されて、それが自分の本当の価値であるかのように信じ込まされているのが、現代の日本の若者の実態なのである。そのような単純な需要を察知して、得点20点アップ保証などと餌をチラつかせている学習塾もある。
では、この状況に出口はないのであろうか? 一見そのように見えるが、サルトル氏は実存主義は楽観的なのだと述べている。何故であろうか?
… it is by pursuing transcendent aims that he himself is able to exist. Since man is thus self-surpassing, and can grasp objects only in relation to his self-surpassing, he is himself the heart and center of his transcendence.
…. 彼が自ら存在し得るのは、 優れたものになる目的を追及するによってである。人間はこのように自己超克的なのであり、自己超克とかかわる中でのみ目的を掴むことができるのだから、彼自身が優れたものになってゆく心臓部・中心なのである。
自分で現状を克服してゆくことが大切なのだと、サルトル氏は結論している。自分自身で自分の未来を切り開いて、現在の自分よりも優れたものになるべきなのである。しかし、単なる数値もしくは成果が絶対視されると、東大→経産省→国会議員という絵に描いたようなエリートコースを辿って出世しても、全く中身のないおバカな人間が出来上がってしまうようなことにもなる。
**引用の英文はこちらです。
2019/05
高校入試
埼玉県では、来春の高校入試から上位選抜校と一般校では出題が異なるようになる。これについては、小生は肯定的な評価を与えたい。
埼玉県では (おそらく他の都道府県でも) 数学の入試問題の平均点は、かなり低い。埼玉県の場合には40%前後である。平均点が40点であるとすると、40点を取った受験生は真ん中よりも確実に上に位置される。なぜなら、そのような試験であっても、80点以上の高得点を取る人が確実に存在して平均点を引き上げているからである。(逆に言えば、平均点が60点の場合には、60 点を取っても真ん中には位置されない。なぜならば、のび太君のように平均点を引き下げる人が確実に存在するからである。)
平均点が40点に満たないような場合には、最初の計算問題だけ確実に正解すれば他の科目で挽回できるということになる。中堅校よりも上の学校に合格できる ことになる。つまり、受験勉強に限定すれば、一教科捨ててもよいことになる。これは、はっきり言ってよくない状況である。
だが、問題が少し易しくなって平均点が上昇すれば、そのような捨て受験はできなくなる。もちろん、上位校では問題が難しくとも、そのようなことはできな い。だから今回の制度変更は、どのレベルの受験生にとっても、学習意欲を向上させるという意味でプラスに働くと思われる。
因みに、平等が建前の社会主義の旧ソ連でもエリート育成が行われていたことは、『ニキーチン夫妻と七人の子ども』 (暮しの手帖社訳版、1983) という本でうかがい知ることができる。
2016/06
点数UPよりも学力UPだ
学校で行なわれるテストでは、予め出題される問題が指定されている場合がある。このようなテストでは、そこを集中的に覚えれば得点はUPするのである。
だが、そのような丸暗記のみのテストでは、本来の学力を判定することはできない。厳しい言い方をすれば、点数が大きくUPしても学力はあまり向上していないケースも存在するのである。だから、たった1回か2回のテストで得点がUPしただけでは、慢心すべきではないのである。
さらに言うなら、点数をとることは大切ではあるが、点数が全てではないのである。中学校の数学で言えば、難題に敢えて挑戦することで時間不足になり、結果的に点数を落としてしまっても、その子に本来の学力が形成されていれば大きくマイナス評価されることではあるまい。その子は、そのような失敗を次回への糧にすればよいのである。
実際、埼玉県の高校入試では、数学は難問揃いであり、表面を撫でるような勉強では太刀打ちできない。そうだから基本問題だけしっかり得点しましょう、という指導法もあるが、そのような方法で勉強をしていては、高校の数学では挫折必至である。
点数万能主義の弊害は、英語においてはさらに顕著で、このために日本人は英語下手になっているのである。実社会では、英語は喋れて何ぼ、書けて何ぼ、読めて何ぼである。必要なのは、文科省も言っているように.「使える」英語なのである。
小生は点数+αの指導を心掛けている。点数だけが全てという方針で長年塾を営めたら、その人は (余程の営利主義者でない限り) 痴れ者であろう。(本当に実現されているかどうか疑わしいが、)「成績保証」などというのは、本末転倒である。
2014/07
塾と言う場
小生の塾も登録している塾検索サイトで、大変寂しい記事を見つけた。真摯な態度の若い経営者の塾が、閉鎖になるとのことである。
塾に限らず、中小零細企業の経営は大変難しいものである。何しろ資金力はないし、融資を受ける際の信用度も低い。だから、顧客数の若干の減少でも、大きく経営に響く。
加えて、塾の場合には、どのようなことに重点を置いて営むのか、目指す方向はどちらなのかという方針次第で、塾生たちへの指導方針が全く違ってくる。塾長の経営方針は十人十色である。或る一人の塾長であっても、考え方は日々刻々と変化するものである。その中で自塾の方針を定めて運営するのは、傍目以上に大変なことである。
小生の場合には、現在の運営方針は、子どもたちに努力をさせること、努力する塾生にはとことん付き合うことである。或る塾生の合格した学校が多くの父母によって良しと認められたとしても、その者が日々の弛みない努力を怠ったとしたら、小生には嬉しいことではない。
もちろん、ただ闇雲に努力を強いても、塾生個々の状況を把握していなければ良い結果は生まれない。単に結果だけを追い求めるのは、小生の本意ではない ── というのは、結果は時として非常に残酷であるからだ。
「目の前に山があるから登る」と言ったアルピニストが居たそうだが、学ばねばならないことがそこにあるから人は学ぶのである。塾という場には ── 時には厳しく時には優しく ── その手助けが出来ればよいのだと、小生は考えている。
2012/02
「賭け」について
我々が日常生活の中で行う判断は、論理的に確実な判断と、確実ではない判断に分かれる。
疑う余地もなく確実な判断というのは、同じことを確認するだけの判断、「富士山は山である」という類の判断である。述語で言いたいことは主語の内に既に含まれているのであり、同語反復に過ぎない判断である。
このような判断をドイツの哲学者カント (Immanuel Kant 1724〜1804) は「分析判断」(analytische Urteile...[analytic propositions もしくは judgements と英訳されよう]) と呼んでいる。<"Kritik der reinen Vernunft">
だが、確実な判断には、数学に代表されるような、確実でありつつ新たな要素を付け加える判断もある。
例えば y = 2x + 1 という関数において、x = 3 ならば y = 7 であるという類の判断がそれである。カント自身が示している例では、7 + 5 = 12 という判断がそれである。
7 + 5 = 12 など当たり前ではないか、と思われる方が多いであろう。だが、7 × 5 = 12 ではなく、7 + 5 = 12 なのはどうしてであるか理解できても、5の2乗が10 ではないことを (当初は) 理解できない中学生もいるのである。
このような判断は、もとの理解に何かを新たに付け加える判断であり、その意味では「総合判断」(synthetische Urteile...[synthetic propositions もしくは judgements と英訳されよう]) になるのだが、しかし、その判断は、元々正しい (a priori) 判断なのである。このような判断をカントは、「アプリオリな総合判断」(synthetische Urteile a priori) と呼んでいる。
さらにカントは、「アプリオリ」ではない「総合判断」(synthetische Urteile) が「経験的」な判断であり、確実ではないことを指摘している。
我々は日常生活の中で、不確実な「総合判断」を常に行っているのであり、例えば、「入学試験で普段の実力を発揮できる」という判断などは、不確実な判断の典型である。
不確実な判断が多くの人によって行われた実例として、福島第一原発の事故への対応が挙げられる。
原子炉の「炉心溶融」(nuclear meltdown) が進み、冷却水が失われていた3月半ばの時点では、原子炉の「圧力隔壁」(pressure vessel) が吹き飛ばないという保証はなかったのである。大丈夫だという判断は、不確実な「安全性」に賭けたに過ぎないのである。
言い方を換えれば、(太平洋戦争で「神風」を期待し、信じ込んだように) 「安全」を信じただけなのである。
尤も、何千万人もの人が東北地方と首都圏から脱出することは、不可能に近い。事実上、我々は、最悪の事態へ至らないほうへ「賭け」をしなければならなかったのである。
我々は人生の多くの場面で「賭け」をしながら生きているのである。なお、パチンコ等のギャンブルでお金を無駄にする人は、本当の意味では「賭け」をしていないのである。
あのようなギャンブルが運営業者による集金システムに過ぎないことは、考えれば分ることである。
2011/04 (2012/02 加筆)
インフレ・ターゲットなど間違いだ
今、「朝まで生テレビ」でインフレ・ターゲットを設定すべきだという発言をしているパネリストがいるが、小生は言いたい。インフレ・ターゲットなど間違いだ、と。
実際、原油価格の上昇に伴ってガソリンは高くなってきているが、これは消費者に何の利益ももたらさない。商品の生産費も高騰して、不況下で販売価格を引き上げられない生産者にも打撃を与える。
デフレが続くのは、ずばり国民の所得が低いからである。
2010/05
努力
昨夜(正確には今日だが)、テレビ朝日の「朝まで生テレビ」を視聴した。
今回のテーマは「若者に未来はあるか?」というものであった。今回のパネリストは30代(一部は20代)の若手政治家・実業家・著述家と、年配の堀紘一、猪瀬直樹、森永卓郎、小沢遼子の諸氏、そして司会はいつもの田原総一郎氏であった。
眠くなったので途中でテレビを消したが、番組の中で印象的であったのは、『「丸山眞男」をひっぱたきたい』という論文の著者である赤木智弘さんの発言であった。
赤木さんは「努力をしろ」と言って欲しくない、というような主張をしていた。それに対してあの堀紘一は、「イチローが努力をして結果を出したのは悪いことなのか?! 」というように、赤木さんの発言に強く反論していた。
努力の問題について言えば、小中学校の段階では、周囲の人々が協力して努力の大切さを教え込むべきである。また、この段階の学習カリキュラムも、社会人一般の素養として必要なものばかりである。
だが、問題はその後である。例えば、高校での英語教育は、ベースとなっているテキストは相変わらず古臭いものである。また、韓国では第2外国語として中国語(やその他の外国語)を教える今日、日本ではいまだに「漢文」を教えているという状況である。そして、受験で成功するためには、このような使いものにならない知識を只管に「努力して」身に付けろというのである。
日本の高校では、アメリカで行われているようなプレゼンテーションはほとんど行われず、テストで成功するために自己の内に向かって黙々と勉強に励むのである。(これでは、「引きこもり」が出ても仕方がない。) かくして、首尾よく大学へ合格したら、3年次には就職活動を始めねばならない。これが、多くの若者にとっての標準的な成功のコースに乗るモデルなのである。
だが、このコースは、振り落としのレースであり、さらに悪いことには日本でのみ通用する人材を育成するための振るい落としレースである。それは、喩えるならば、プロの将棋指しを育成する「奨励会」のようなものである。
将棋指しの場合には奨励会で成功の確率の低いレースをくぐり抜けなければ、人生のそれまでの努力が台無しになってしまう。しかも、(他に特技がある場合を除いて、) 競争に敗れた者たちの結末は悲惨である。
大崎善生という作家の小説にその題材をテーマにした作品があり、その作品の実在する主人公はホームレスに近い状況へと転落している。
そして、大崎氏は、「産児制限的な三段リーグ[= トーナメント・プロのライセンスを獲得するためのリーグ戦]という制度は上の世代の既得権を守るためのものだ」というように主張している。それは日本の学歴社会にもそのまま当てはまることであり、改革以前の司法試験などはその典型である。
奨励会や司法試験の受験生は、当人から好んでなるものである。これは、絵描きや音楽家になるために洋行した池田満寿夫や小澤征爾のような成功者、そしておそらく非常に多数に上る失敗者などについても言えよう。だが、大学受験→就職のコースを歩む者の多くは、自発的な強い意志をもってそのコースを進む者ではないであろう。
そんなコースを進むために、ましてや終身雇用制度が崩壊しつつある現状では尚更、努力を継続できるはずがない――研究者や専門職を目指すのであれば別であるが。その証拠には、大学に入るや勉強を止めてアルバイトにのみ身を入れる学生が多い。
結論として言いたい。若者の努力は絶対に必要である。だが、その努力の成果の享受が「最大多数の最大幸福」的になるように、国家や社会が若者を支援すべきである。また、高校・大学のカリキュラムも、国際社会に対応できる人材を育成するように変革されるべきである。現代中国が経済的にも政治的にも大きな影響力を持ってきている時代に、カビの生えたような「漢文」など学習すべきではないのである。
当然、企業にも社会的責任はあり、学業の妨げになる「青田買い」などは慎しむべきであり、従業員に対する使い捨ての姿勢――堀紘一などはこれを肯定・礼賛しているが――は許されるべきではない。
(c)春日学習室 http://kasugajuku.homeip.net
2009/10
子供の権利条約
13歳のフィリピン人少女の両親への国外退去という対応は、「子供の権利条約」に違反する可能性があると指摘されている。そうであるとすれば、裁判所の判決そのものが違法な判決だということになる。「3権分立」の原則がある以上、政府の行動には限界があるのだろうが、しかし、今回の入管と裁判所の対応の閉鎖性には、全くもって不愉快である。
よって、以下に英文でメッセージを書いておく。少女とその家族のために良心的にこのメッセージを利用してもらえる場合には、このメッセージは自由に引用・転載・利用可とします。
A matter, that surrounds a Philippine girl living and studying in Japan, has proceeded and come to the bad ending.
I am not an acquaintance of her, so my information sources are come from TV and Internet news.
The girl’s name is Noriko and her age is thirteen. She has been studying in a (junior) high school in my same prefecture. Her father and mother entered Japan illegally before her birth. But her father did very hard work in order to bring up and educate her, for example, nighttime building-construction work. And Noriko herself was praised in her elementary school days for reading so many books (50 books).
But when she was 10 years, the parents were arrested and (after liberated) sent to law court. Japanese law cases take time in trials; so Noriko became 13 years during the trial has been proceeding. And in the end the order was given, which says her father and mother must leave Japan immediately and only Noriko is able to stay in Japan.
How can a 13-year girl stay and study alone without her parents? An article shows that she has some relatives in Japan. But it is suspected that something wrong might happen around her if she lose her parents.
The family’s lawyer says, “Why not Japanese Government admit the family staying in Japan, under the (International) circumstances that have the necessaries of admitting foreigners into Japan and under the situation that the family has been staying steadily for such long years”.
In addition, some lawyers (in Japan) point out that this decision by Japanese Government might be an unlawful act against ‘Convention on the Rights of the Child’.
Actually, the parents committed the crime. But, I think, we should consider the political, social and economic states in the Philippines. By the time around 10 years before of Noriko’s birth, the Philippines had been a terrible nation under the dictator by Ferdinand Marcos.
After that its society and economy had developed, but in the era when Noriko was born the situations were far different from highly developed countries like US or Japan.
I am impatient for the decision of Japanese Government. So I write down this message.
2009/04
English reading
of Japanese students
Why do Japanese students read English textbooks like Buddhist text-reading (in Japanese style). I think the main cause for that is in Japanese educational system.
English is, of course, a language just as Japanese or Chinese. So if we don't become able to either speak, write or read (understand) English, it can be pointed out that our English education has no meaning.
Nevertheless, our school-teaching system has been continuing almost one-way old (like worn-out clothes) style of teaching.
In Japan, students do not learn English for practical using (such as booking airline tickets, saving money in the account, or making friends with foreigners) but study English for getting more points in their examinations.
Besides, most examinations do not require students to speak or read English. Almost all that they have to do is studying their textbooks in order to write down answers in the examination papers, and it must be tedious work.
For the reasons above, I do make a conclusion, Japanese students read English like Buddhist text-reading.
2008/06
個別指導で
学力が向上しない理由
塾の指導は、一斉指導と個別指導に大別される。そして、できる子供は一斉指導、できない生徒は個別指導という認識もなされている。だから、個別指導を受けること自体に引け目を感じる子供や父兄も多い。
だが、学校外の勉強で要求されるのは、予習と復習、弱点個所の克服であり、それは一斉授業を必要としない。反対に、一斉授業には無駄な時間も多く含まれる。であるから、本来は、学力に関係なく個別指導のほうが勝るはずである。
論理的にはそうなのであるが、現実には個別指導は多くの問題を抱えている。まずは、講師の質である。優秀な講師を数多く抱えることは、非常に難しい。さらには、個別指導の講師の多くが時間給のアルバイトなので、時間を超過しての(あるいは教材の準備等の)サービス残業を嫌がる傾向にある。
また、サービス残業には法的な問題もあろう。個別指導が一斉指導より高額であるという理由で、父兄側が充分な学習時間を確保できないことも多い。
以上のような理由から、大手の個別指導塾は避けたほうが無難である。しかし、塾長自身が責任をもって指導している多くの小さな塾は、現実には低料金で個別指導に近い指導を行っており、しかもアルバイト学生を使った個別指導よりもはるかに優れた指導を行っているはずである。
個別指導だから成績が伸びないのではない。アルバイト指導だから成績が伸びないのである。
2007/12
育てるとは?
ニュースで知って大変驚いたが、会津若松市で母親を殺害した高校生は頭部を鞄に入れて自転車でカラオケ店へ行った、とのことだ。彼の行動は理解不能である。
しかしながら、これは彼一人の問題として捉えられるべきことではなく、社会的背景を考慮に入れるべき問題であると思われる。教育や「しつけ」の問題を除外しては考えられない問題だと思われる。
小生は社会学や心理学の専門家ではないので、詳細な分析はできない。只、長年学習塾を営んでいて実感するのは、教育の意義を考慮することのない「結果至上主義」的教育が幅を利かせていることである。
農作物を育てる過程を考えてみれば分ることだが、土地を耕し・種を植え・肥料を与え・雑草や病害虫を駆除し・旱魃や台風などの自然災害の影響を最小限に留めるといった非常に根気の要る作業の結果として豊かな結実機を迎えることができる。
ところが、都会に住む消費者としての我々は、金銭の対価として容易に農作物を手に入れようとする。
人間を育てる教育においても、同様のことが言えるであろう。塾へ月謝を支払いさえすれば成績が上がると考えるなんぞは、言語道断である。
ただ単に成績を期待するのではなく、根気強く子供を育ててゆき、しっかりとした価値観をもった人間に成長させることこそ最も大切な問題であろう。
学習においても、苦労して知識を獲得してゆくプロセスが大切なのであり、教える側も常にそのことを心に留めて指導する必要があると思われる。
学習塾の場合には特に。
2007/05